ミュージシャンとイデオロギーの話題



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SNSの隆盛にともなってアーティストはWeb上で私的な発信をすることが可能になったが、これによって行われた主義主張に対してネット上では「応援していたのに・残念です・がっかりです」という文法の批判が繰り返されることとなった。ここには大前提として「商品」と「消費者」の間の上下関係―――商品は顧客の要望にこたえるべきである―――があり、創作物に芸術家のイデオロギーが込められることはプロパガンダのために商品を”悪用”したこととみなされる。芸術家は、創作を通してメッセージや何かを訴えるのではなく、それ自体の”快”によって消費者を勇気づける生産者としての誠意を持たなければならないのである。

この脱イデオロギー的な態度を求められる芸術家の複雑な立場を見事に表現したのが、2020年4月に万人向けに公開した「うちで踊ろう」という動画によるムーブメントに当時の安倍晋三首相が乗じてきた際の星野源氏のコメントだろう。

 

 

ひとつだけ。
安倍晋三さんが上げられた“うちで踊ろう”の動画ですが、
これまで様々な動画をアップして下さっている
沢山の皆さんと同じ様に、
僕自身にも所属事務所にも
事前連絡や確認は、事後も含めて
一切ありません。

 


人気アーティストは、イデオロギーをまたいで右派にも左派にも支持を受けなければならない。「うちで踊ろう」は当時新型コロナウイルスによる自粛を受けて沈んでいた大衆に向け、政治的立場をまたいで勇気づける目的があったと言えるだろう。慎重に、徹底してイデオロギー臭を取り除いてきたアーティストに対して、そのウイルス対策への批判と擁護の渦中にあった当時の首相が飛び込んできた事態は「イデオロギーの塊がぶつけられた」ようなものだったと言える。

このイデオロギーの隕石は、喜んで受け止めれば左派の不信を(私たちに自粛を強いるばかりで保障もしない政府に加担するのか)、悲鳴をあげて避ければ右派の不信を(”誰でも”利用できる動画ではなかったのか)買うという難儀を極めるものであり、最終的に「避けも受け止めもせず」という態度を表現するために選び出されたのが引用のような言葉だったのである。

一連のできごとは、イデオロギーの表明が作家にとってもはや何の得にもならないという現実を端的に示していると言える。イデオロギーの表明は、別のイデオロギーに対する不寛容とみなされるためである。

 

 

おもしろい視点だと思った。

 

ただまあ、音楽やミュージシャンがすべからくイデオロギー的なものを持つというわけでもない、というより実際にはその逆でほとんど消耗品的な音とグルーヴの娯楽なので、ただ快をお届ける生産者の立ち回りというのはほぼ正しいし矛盾もしないのでは。

つまり音楽とはメロディーであり、グルーヴであり、楽器であり、かつ歌であればそれは言葉でもあるから。本来非常に多面的な表現のはずだが、経験者でもなければ明確に語れる部分というのは言葉の領域しかないのでそこを過大に捉えてしまう傾向がある。

そもそも言葉を扱うものはすべからく意味を持たなくてはいけない、ということは全くないと思う。だから音楽を作る人にはイデオロギー的なものがあるはずだ、というのは正直なところただの思い込みだと思う。詩人も小説家も絵師もそうだろうけど。基本的には音楽をやる人は音楽という表現が好きな人、絵を書く人は絵が好きだから、というだけであり、そこからどういった表現や情景やあるいは思想をその上に乗せるのか、というのはそこから先の個性に過ぎない。そういうアプローチもできるしそういう曲だったりそういう人もいるというだけだ。

最近、だれかのツイートで本当に残る音楽は意味のあるものだというものを目にしたけれど、しかし意味を持つものこそ素晴らしいという考えは逆に歌の本質から逸脱しているような気がした。本質を考えているようで実は表面的な捉え方だと思う。歌の要素のうちの歌詞、その本質というのは詩性だと思う。あるいは長編短歌。文字数の制約は作曲によって自分が決める。詩と短歌の中間的ななにか。だから語られている内容に意味があるとかメッセージがあるとかないとか、あるいはイデオロギーを感じるとか、物語的に筋が通っているとか、そんな必要は全くない。つまり言葉自体が表現だから。言葉は通常は人間どうしの意思伝達ツールとして使うが表現としても使えるということ。それが詩性の基本原理だ。意味はよくわからないがなんとなく心に残る言葉の組み合わせ。それが言葉自体の表現だと思う。別に必ずしもエモーショナルな、ポエミーな言葉を使うものという意味では全然ない。もちろん使ってもいいわけだが。たとえば作詞者として誰かが明確な意味を持って書いた言葉でも、それがそのように伝わらなくても全く問題ない。歌はひとりで歩けるものだ。言葉の表現として聴いた人それぞれ固有の機能を持って響くもの。だからなんであれ正しい解釈というのはない。それは聴いた人それぞれに生まれるものだ。詩人や画家にこの作品でいいたいことはなんですか、と聞くほど愚かなことはないだろう。それはその文字を読んだり絵を見たあなた次第なわけだから。受け取った人固有の響き方、固有に機能する。もちろん作品の背景を知るのは悪いことじゃない。じゃあ別に愚かではないか。そうかも。どっちなんだ。それもまた難しい問題だ。作者にその意味を聞いてしまった瞬間そのイメージに固定化されてしまう問題があるとは思うが、話がそれ過ぎているし忘れよう。

ただひとついいたいが意味の通った歌詞を書くのは散文的で意味不明な歌詞を書くよりはるかにむずいというこの事実。文字数が合わなくて常に不自由さとの格闘になるし、情景や心理描写を書くには自数も足りなすぎるケースだったり。しかしわけわからん言葉を繋げるほうが一般に難しいと思われてそう。いや実際は逆だよな。難しければ素晴らしいわけでもないだろ。そりゃそうだな。なにがいいたいのかわからん。

例えばストーリー的歌詞を書くのならいっそ小説を書いた方がいいのでは、と思った。もしくはマンガ。たぶんそのほうが正しい。しかし私は音楽が好きなんだよ。小説を書いてどうする。そういう歌が好きだ。そういう言葉や筋書きが音楽に乗った状態が。それは育ちの問題かも。もちろんそういうのでないのもいっぱい好きだが。そもそも小説や漫画なんて書けない。できるわけもないしやりたいと思ったこともない。絵は最近描けますね。下手だけど。すごい進歩だ!

また作りたい。まとめるといいたいことは、それだけか。

 

 



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